久喜市栗橋地区観光紹介

久喜市栗橋地区ガイドマップ

久喜市栗橋地区観光スポット


利根川のあらまし
 利根川の名称が初めて文献に見えるのは「万葉集」だ。「利根川の川瀬も知らず ただ渡り 波にあふのす逢へる君かも」と詠まれている。古くは相模国の足柄山・箱根山以東を坂東と呼んでいた。利根川は坂東随一の河川であり、日本の河川の長男として「坂東太郎」と呼ばれ、親しまれている。
 利根川流域は日本の国土総面積の約4.5パーセントを占め、総人口の約10分の1に相当する約1,279万人が居住している。流域の人口の多くは利根川中流部及び江戸川に集中しており、東京のベッドタウン等として発展している。


― 栗橋関所 ― 日光道中唯一の塞
 栗橋関所は通称であり、正式には「房川渡中田関所」と言われている。江戸時代の関所は、江戸防衛や大名統制のための政治的・軍事的な拠点としての機能を有しており、「入り鉄砲に出女」と言われるように江戸へ持ち込まれる鉄砲と、江戸から出る女性の通行を厳しく取り締まった。栗橋関所は交通の要衝として重視され、約250年間江戸北方の警護を担っていたが、江戸幕府が終焉し、新政府に移行後の明治2(1869)年には廃止された。


― 栗橋宿 ― 日光街道7番目の宿場町
 栗橋の村は、もともと下総国栗橋村(現在の茨城県五霞町)にあった。しかし、「利根川の瀬替え」の一環として行われた赤堀川(現在の利根川の本流)の開削に起因した大洪水に見舞われたため、村民が上河辺新田(現在の栗橋)に移り住み、当初の地は「元栗橋」と名乗るようになった。
 この新しい栗橋は、元栗橋の池田鴨之介と並木五郎平の両名が、関東代官伊奈忠次の指揮により開発したまちを起源としており、池田氏・並木氏を含む56名が、それぞれ街道の東側と西側に移住した。関所の開発に合わせ正式に宿場が成立し、池田家は代々本陣役を務め、栗橋宿の発展に大きく貢献した。